チームの歩み

福岡南リトルシニアは、当初、福岡西友泉リトルシニアチームの名で、昭和60年3月に設立されたものです。

当時、私立片江中学が新設されるに伴って長尾中学校と友泉中学校の校区割が変更されたため、それまであった友泉中学校野球団が廃止されることになりました。それを惜しんだ地域の方々によって、中学硬式野球を普及し強靭な身体並びに健全な精神の育成を目的に結束されました。

初代会長に白石巌氏、監督に横手邦夫氏、以後、第2期生の新チームより高倉照幸氏が監督に就任し、同時にチーム名を「福岡南リトルシニア」へと変更しました。

早くも発足2年半後には九州連盟で優勝し、九州代表として第15回日本リトルシニア野球選手権大会へ出場しました。

その後も高倉監督のもとで、夏季大会優勝、福山大会優勝、第8期生が第22回日本リトルシニア野球選手権神宮大会へ出場、第13期生が春の第5回全国大阪選抜大会へ出場、また、第21期生が高倉監督の最後の大会となる第2回ホークカップを優勝し、九州中学硬式野球チームの頂点に立ち、現、一ノ瀬監督のもと、第30期生が秋季大会を優勝するなど、数々の優秀な成績をおさめております。

チーム名誉会長 故 高倉照幸

西鉄ライオンズ黄金時代の不動の1番打者。
その後読売ジャイアンツに移籍し、3番王・4番長嶋・5番高倉のクリーンナップを組み、巨人軍第34代4番打者も務めた。
18年間で打撃10傑に4回入り、30盗塁以上を2回、ベストナインには3回選出。

オールスター戦には9回出場し1967年日本シリーズでは技能賞を受賞。
先頭打者ホームラン18本、生涯打率2割7分6厘という成績を収めている。

1988年からは「福岡南リトルシニア」監督に就任し、その後は会長・総監督を務め、当チームの指導を約20年間行った。

選手の素質に合わせた個別技術指導と1年生から3年生まで公平な練習メニューなどは、他に類を見ない野球の頂点を極めた高倉会長ならではの独自の指導法でもある。進学においても一人ひとりの能力と学力にあわせ、適切な進学指導を行い、多くの教え子が甲子園や神宮の土を踏んで社会人として活躍している。
また、25年以上に及ぶ中学生の硬式野球の普及と促進、野球を通じての地域のスポーツ振興の功績に対し、平成26年に文部科学大臣より『生涯スポーツ功労者』表彰を受けた。

2016年より西鉄ライオンズOB会長を歴任。1973年に太平洋クラブとなって以降のライオンズOBにも入会してもらおうと、2017年にOB会の名称から「西鉄」を外し「ライオンズOB会」とした。高倉はライオンズの黄金期を後世に長く伝えていきたいとの強い思いを抱くと共に、自身が選手として生きた西鉄だけでなく、その歴史を受け継いだ太平洋クラブやクラウンライター、現在の西武を含めた選手、OBの幅広い交流の場を作る夢を描いていた。

2018年は1月頃から体調を崩して福岡市内の病院に入院していたが、2月12日に心不全のため死去。83歳没。

指導理念

心・・・挨拶・礼儀・野球に対する心構えの指導をします。

技・・・基本から個々の技術を高める指導をします。

体・・・怪我をしない身体作りに基づいた練習方法で指導をします。

監督挨拶

福岡南リトルシニア監督の一ノ瀬賢一郎(いちのせけんいちろう)です。
2012年12月より「福岡南リトルシニア」の監督に就任しました。

個々の能力を最大限に引き出す指導をし、単に技術の習得だけでなく、未来ある子供たちへ野球を通してチームワークの大切さや、挨拶、礼儀など、社会に対応できる心と体も鍛えていきます。

練習や課題から本気で向き合って取り組んでいく子供たちを、これからも心身共に支えていけるよう、また日々感謝の気持ちを忘れずに精進して参ります。

一ノ瀬監督プロフィール

5歳のころより「花畑ブルージェイズ」でソフトボールを始め、北京オリンピック金メダリストの上野由岐子選手と同じユニフォームに袖を通し、練習に明け暮れていた。

中学校時代はこの「福岡南リトルシニア」で本格的に硬式野球に打ち込み、多くのライバル、チームメイト達と切磋琢磨し、中学3年生の春には全国選抜大会に出場を果たす。
MAX140Km/hの剛速球と切れ味鋭いスライダーを武器に三振の山を築き上げ、打者としても豪快なスイングでスタンドに叩き込むなどでチームを引っ張り、全国大会の切符を掴み取った。

高校はプロ野球選手を輩出している大分県の名門「柳ヶ浦高校」へ進学、ここでも素晴らしい指導者、先輩、同志に巡り合い、1年からクリーンナップの一翼を担い、通算35本塁打を記録、3年夏には4番打者として念願の甲子園出場を果たす。チームとしては敗れたものの、一ノ瀬本人は日本ハムで2010パ・リーグ新人王の榊原投手から3安打を放つ活躍を見せる。

その後、青森県の「八戸大学」進学、入学当初から即戦力として期待されていたが、高校時代の肩の手術に続き肘を故障してしまい、究極の目標だったプロ野球選手への夢を閉ざしてしまうことになる。

家業である大工の道へ進む傍ら、休日はOBとして「福岡南リトルシニア」でコーチを務めていたが、後輩たちの野球に対するひたむきさに心打たれ、一度は歩みを止めた野球に対する想いを強め、

監督就任三年目にして当チームを稲尾和久メモリアル秋季大会 優勝に導き、日本リトルシニア全国選抜大会(大阪)出場を決め、ベスト16という結果を残し現在に至る。